2007年 07月 31日 ( 2 )

石垣りんと茨木のり子の詩が似ているとのご指摘があり、ホッホーな~るほどと思いましたので、茨木のり子の「倚りかからず」を抜粋します。彼女は去年の2月に永眠。孤独死でした。

私にも好きな傾向があって、どうしても偏ってしまうのですが、まず毅然としてまっすぐであること、自由と孤独を抱えて生きていること、人生を楽しんでいること等が選択基準となります。

倚りかからず 茨木のり子

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
自分の二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

私の前にある鍋とお釜と燃える火と 石垣りん
それはながい間
私たち女のまえに
いつも置かれてあったもの、
自分の力にかなう
ほどよい大きさの鍋や
お米がぷつぷつとふくらんで
光り出すに都合のいい釜や
劫初からうけつがれた火のほてりの前には
母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。

その人たちは
どれほどの愛や誠実の分量を
これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
ある時はそれが赤いにんじんだったり
くろい昆布だったり
たたきつぶされた魚だったり
台所では
いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意のまえにはいつも幾たりかの
あたたかい膝や手が並んでいた。

ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
どうして女がいそいそと炊事など
繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ
無意識なまでに日常化した奉仕の姿。
炊事が奇しくも分けられた
女の役目であったのは
不幸なこととは思われない、
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても
おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と

それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう、
それはおごりや栄達のためでなく
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象あって励むように。

彼女たちが遺してくれた素晴らしい言葉の力に感謝して、利尻・礼文の花々を捧げます。