人生は森のなかの一日
2012年 05月 06日
先日UPした長田弘の詩画集「詩ふたつ」のもう一つの詩
”人生は森のなかの一日”
グスタフ・クリムトの画も素敵!
<あとがきの言葉>より抜粋
「詩ふたつ」は、詩ふたつからなる一冊の詩集です。それは死ふたつ、志ふたつでもある組詩として書かれ、ことばと絵のふたつからなる、一冊の本としてつくられました。
亡くなった人が後に遺してゆくのは、その人が生きられなかった時間であり、その死者の生きられなかった時間を、ここに在るじぶんがこうしていま生きているのだという、不思議にありありとした感覚。
「詩ふたつ」に刻みたかったのは、いまここという時間が本質的にもっている日向的な指向性でした。
心に近しく親しい人の死が後にのこるものの胸のうちに遺すのは、いつのときでも生の球根です。喪によって、人が発見するのは絆だからです。
そのことをけっして忘れさせないものとして、いつも目の前に置いて励まされたのは、グスタフ・クリムトの樹木と花々の圧倒的な画でした。わたしにとってのクリムトは、誰であるよりもまず、樹木と花々のめぐりくる季節の、死と再生の画家です。
「詩ふたつ」は、できれば、ゆっくりと声にだして詠んでください。
故長田瑞枝(1940~2009)の思い出にーー。 (2010年 卯月)
人生は森のなかの一日 長田弘
何もないところに、
木を一本、わたしは植えた。
それが世界のはじまりだった。
次の日、きみがやってきて、
そばに、もう一本の木を植えた。
木が二本。木は林になった。
三日目、わたしたちは、
さらに、もう一本の木を植えた。
木が三本。林は森になった。
森の木がおおきくなると、
おおきくなったのは、
沈黙だった。
沈黙は、
森を充たす
空気のことばだ。
森のなかでは、
すべてがことばだ。
ことばでないものはなかった。
冷気も、湿気も、
きのこも、泥も、落葉も、
蟻も、ぜんぶ、森のことばだ。
ゴジュウカラも、アトリも。
ツッツツー、トゥイー、
チュッチュビ、チリチリチー、
羽の音、鳥の影も。
森の木は石ゴケをあつめ、
降りしきる雨をあつめ、
夜の濃い闇をあつめて、
森全体を、蜜のような
きれいな沈黙でいっぱいにする。
東の空がわずかに明けると、
大気が静かに透きとおってくる。
朝の光が遠くまでひろがってゆく。
木々の影がしっかりとしてくる。
草のかげの虫。 花々のにおい。
蜂のブンブン。石の上のトカゲ。
森には、何一つ、
余分なものがない。
何一つ、むだなものがない。
人生も、おなじだ。
何一つ、余分なものがない。
むだなものがない。
やがて、とある日、
黙って森を出てゆくもののように、
わたしたちは逝くだろう。
わたしたちが死んで、
わたしたちの森の木が
天を突くほど、大きくなったら、
大きくなった木の下で会おう。
わたしは新鮮な苺をもってゆく。
きみは悲しみをもたずにきてくれ。
そのとき、ふりかえって
人生は森のなかの一日のようだったと
言えたら、わたしはうれしい。